――なぜJICAに入った
のですか?


「大学2年の時、 内閣府
( 当時は総理府 )所管の
「東南アジア青年の船」に
参加したことがきっかけで
す。フィリピン、シンガポ
ール、マレーシア、タイ、
インドネシア、ブルネイの
ASEAN6か国の青年と
日本の青年が 人ずつ同じ
船に乗って、1か月半かけ
て各国を回り、その姿を垣
間見ました。ASEAN諸
国の開発に日本はどう関わ
るべきか、国・民間レベル
の取り組みなどに関し議論
が交わされ、開発途上国の
問題に関心を抱いて、開発
支援の道を志しました」
――大学時代に熱中したこ
とは何ですか?
「学外で、青年の船の事後
活動に没頭しました。プラ
ザ合意( 年)の後で円高
が進み、大学生でもバック
パッカーで海外へ行けるよ
35
85
うになっていたし、国内で
は増加する外国人労働者の
問題がクローズアップされ
る時代でした。青年の船の
募集支援とか国内の受け入
れ、各国青年たちとの関係
強化などにボランティアで
取り組みました」
――海外に目が向いていた
のですね。
「仕事を通じて海外に行き
たかったです。JICAと
開発途上地域、特にアジア
地域との関わりを見ると、
かつては日本がODA(政
府開発援助)で協力する中
で、日本企業進出のための
先兵ではないか、援助が現
地の必要な人たちにきちん




と届いていないのではない
か等の批判があり、反省す
べき点、改善すべき点は多
々ありました。JICAは
当時、知名度が低く、就職
を決めて同級生に話すと、
JICA横浜2階の海外移住資料館を案内する大久保
さん。日本人の海外移住は100年以上の歴史かあり、
移住者の足跡や日系社会について多くの人に伝えるた
め、各種資料を展示している。入館無料(月曜休館)
『どこ?』『じゃ、井戸を
掘って頑張ってね』といっ
た反応でした(笑)」


――JICAの仕事はどう
いうものですか。
       「日本のO
       DA実施機
       関として、
       開発途上国
への国際協力を二国間援助
で行っています。技術協力
有償資金協力、無償資金協
力の3つを一元的に担い、
約 か所の海外拠点を窓口
として、世界150の国・
地域で事業を展開していま
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す。このほか、国際緊急援
助、調査・研究、市民参加
協力があり、市民参加協力
の代表的なものが青年海外
協力隊( 〜 歳)とシニ
ア海外ボランティア( 〜
 歳)の派遣です。期間は
原則2年。青年海外協力隊
は事業開始以来 年余りで
累計4万人を超え、 か国
に派遣されています」


――その中で、大久保さん
のお仕事は?
「今担当しているのは技術
協力の中の研修員受け入れ
です。北海道から沖縄まで
全国 拠点で、それぞれ開
発途上目の主に公務員が宿
泊研修しています。研修分
野は農業、インフラ整備、
保健、教育、環境、交通、
防災…等さまざまで、政府
や地方自治体、民間企業、
大学、NGO等と連携し、
日本のシステムやノウハウ
を学んでいます。全国で年
間1万1000人ぐらいの
人材を育成しています」 
――これからの目標をお聞
かせください。     
「これまでアジア地域を中
心とした森林保全や海洋資
源保全、環境管理など環境
協力事業に多数従事してき
ました。 今後、フィリン
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とマレーシアに駐在した経
験を活かし、ミンダナオ島
のマレーシアに隣接する紛
争地域の平和と安定に資す
る仕事に取り組みたいと考
えています’
――英語が必要な仕事です
ね。
「両国高校で必死に萸語を
勉強したことが役立ってい
ます。これは高1の授業で
学んだ英語の副読本で今も
大事にしています。『The
First Book of American
History』(アメリカ史入
門、英潮社新社刊)といっ
て、今振り返ると、この教
材との出会いが私の目を海
外に開かせ、開発に携わる
道に誘ってくれたように思
います」
(当時の書き込みが多数
 ある英語教材を披露) 


――これまでの仕事で何か
思い出はありますか?  
「2014年のマレーシア
航空機墜落事故を覚えてい
ますか。クアラルンプール
から北京に向かった旅客機
(乗員・乗客239人)が
消息を絶ち行方不明になっ
て大騒ぎしました。当時マ
レーシア事務所次長で、休
日返上で対応した覚えがあ
ります。まず東京の本部か
ら、JICA関係者が搭乗
していないか大至急確認し
ろと言われ、届をもらって
いる範囲で全員の安全を確
認し、『良かった』と思っ
たら、実はそのあとが大変。
マレーシア政府の要請を受
けた日本政府が、捜索のた
めの国際緊急援助隊を派遣
することになった。これは
想定外の事態で、マレーシ
アは隣のインドネシア、フィ
リピンに比べ地震、津波、
火山の噴火などの自然災害
がほとんどなく、緊急援助
隊受け入れはまずないと思っ
ていたのです」
――それでどうなったので
すか。
 航空自衛隊の輸送機、海
上自衛隊の哨戒機、海上保
安庁の大型ジェッ卜機で、
100人を超す隊員が国際
緊急援助隊として捜索に参
加することになり、その先
遣隊が急遽明日到着する。
どこに着陸させ、どんな場
所を確保し、どういう補給
態勢が必要か、現地のエー
ジェントと交渉しなければ
ならない。専門用語がわか
らない中で、受け入れ環境
を整え、宿泊場所や食料を
手配。オペレーションルー
ムで日本はどの海域捜索を
担当するのか確認したり、
メディアへの対応等、日本
大使館と共に行いました」
――結局、機体は発見でき
なかった?
「最初はマラッ力海峡の方
を捜索し、その後ジャワ島
の方まで範囲を広げても発
見できません。そうこうす
るうち衛星画像で、オース
トラリア南西沖のインド洋
で浮遊物が発見されたとの
情報があり、捜索拠点が同
国西部のバースに切り替わっ
て、マレーシア事務所はお
役御免になりました」
(その後マレーシア政府は、
同機がインド洋南部に墜落
したと見られ、乗員・乗客
は全員死亡したと発表した。
原因は不明。1年以上たっ
て、アフリカ・マダガスカ
ル東方インド洋の仏領レユ
ニオン島で同機残骸と思わ
れる部品が発見された)


――ところで、両国高校の
思い出は?
「勉強で苦労した!(笑)」
――部活は何をしましたか?
「バスケットボール部で
3年間頑張りました。ベン
チを温める方でしたが…。
その頃の友人たちとは今で
も会っています。
 ほかにバンド活動をやっ
てました。気の優しいリー
ダー増田悟君を慕う同級生
で構成された『マンダース』
というグループでピアノと
ボーカルを担当しました。
バンド活動していた仲間に、
その後ミュージカル俳優と
して活躍する石井一孝さん
がいました」
(石井さんは 回同期生で、
1996年の淡交会報第 
号、 年の第 号のインタ
ビューに登場している)
――印象に残る先生は?
「この副読本を教えてくれ
た英語の川村(誠蔵)先生。
眼鏡をかけた非常に温和な
先生でした。もう一人、こ
れも英語の萩原(時哉)先
生」
――好きだったのはやはり
英語ですか?
「はい。あの頃もっと勉強
していたら、今苦労しなかっ
たと思います」
――両国高校で学んで良かっ
たですか?
「もちろんそう思います。
今でも付き合える友人と出
会えたこと、非常にインパ
クトのある先生方が多数い
らっしゃったこと。先生方
の姿勢から多分に影響を受
け、『人生を熱く生きろ』
というメッセージをもらい
ました」
――ご家族は?
「大学2年の東南アジア青
年の船で出会った日本人の
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夫と娘2人の4人家族。現
在 中1、小2の娘は、英語
が全くできない状態でマレー
シアに渡りましたが、イン
ターナショナルスクールで
あっという間に英語を習得
しました」
――後輩に一言お願いしま
す。
 自分はこれが出来る、と
いうものを何か1つ見つけ
てほしい。世界は面自いで
すよ」
(3月9日、JICA横浜
国際センター4階の研修室
で)(宇田川)
   ◇  ◇  ◇  
 おおくぼ・きょうこ 1
967年 月、葛飾区生ま
れ、 歳。旧姓鈴木。独立
行政法人国際協力機構(J
ICA)横浜国際センター
研修業務課長。
 葛飾区立中青戸小、青戸
中を経て 年、両国高校に
入学し、 年に卒業した。
  年、早稲田大学法学部
を卒業してJICA(当時
は国際協力事業団)に入る。
 年〜 年フィリピン事務
所員、2000年 London
School of Economics 
and Political Science
(LSE) 開発学修士修了。
  年〜 年マレーシア事
務所次長を経て、 年 月
から現職。
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 会 報 8 0 号 掲 載 「 大久保恭子さん インタビュー紹介 」  最終更新日 : 2018/06/04   
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