母校の正門を入ると左脇に芥川龍之介の文学碑がある「写真」。 私は淡交会の会長を仰せつかるまでは母校の新校舎を訪れることは無かったので、その立派な小松石の記念碑には心底びっくりさせられた。
『大川の水』と題する作品の一節が国文学者・吉田精一氏( 回卒)の揮毫で刻まれてある。「もし自分に東京のにほひを問う人があるならば、自分は大川の水のにほひと答へるのになんの躊躇もしないであらう」
 この作品は芥川龍之介(7回・明治 年卒)が 第一高等学校の学生であった 明治 (1912)年に 短歌誌『心の花』に公表したもので、私はその存在をこの文学碑を通じて初めて知った。
 全文約4千字の小品であり、Webサイトの青空文庫で読むことができる。
 この文学碑の裏面には新校舎落成を記念して昭和 (1983)年に東京都が
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建立したと記されている。そこで起こった疑問は一体誰が芥川龍之介の文学碑を落成記念に相応しいと考えたのか。 しかも『大川の水』の感動的とも呼べるこの一節を 誰が 記念碑に刻もうと考えたのかということである。
 早速、この疑問を事務局の同級生・室賀五郎君に投げかけたところ、この疑問は即座に解決した。「資料室」には岡田孝一氏( 回卒)が書き遺してくれた『学友雑誌と芥川全集を読む』(2008年、淡交会刊)が保管さており、『三高教室』 号(1982年)には当時の校長・羽部英二先生が「文学碑の建立にあたって」という一文を寄せていたからである。
 これらの資料によると、新校舎落成記念として学校側から東京都生活文化局の文化デザイン事業に応募し、これが採択されたものであることが分かった。
 ということは、学校側はこの予算申請時に記念碑を芥川龍之介の文学碑とし、そこ









に刻む言葉も決定していたことになる。誰がこの『大川の水』のこの一節を選んだのだろう。これについて羽部英二先生は「碑文の選定にあたっては、特に国語科の先生方の貴重な示唆があり」と記している。
 芥川が大川(隅田川)を慈しみ、その光、色、音、においまでも見事に描き出したこの作品の、しかもこの一節は両国高校に学ぶ者、或いは地域の人々の共感を呼ぶに誠にふさわしいものである。国語科の先生方は勿論であるがこれを是としてこの事業を推進した羽部校長先生はじめ当時の先生方に畏敬の念を抱かずには居られない。
 私はこの一文を書くに当たって、あらためて両国橋の中央に佇み、大川の流れをしばし眺めた。そして淡交会という大きな歴史の流れに思いを馳せた。この流れの中にあって、岡田孝一氏は『両国高校百年誌』(2002年刊)の編纂という大事業を成し遂げられた大恩人である。 岡田氏は惜しくも昨年末、鬼籍に入られた。









淡交会を代表して心からご冥福をお祈り
申し上げたい。 合掌






















 芥川龍之介文学碑と『大川の水』